西野 努 氏

元Jリーガー・フットボールMBA  2007.03.10

『サッカーに賭ける夢』

第3回目の講師は、元Jリーガー、(有)オプト・スポーツ・インターナショナル社長の西野努氏です。
西野氏は、神戸大学経営学部卒業後、浦和レッズのプロサッカー選手として、9シーズンにわたりセンターバックとして活躍。
当日は、高校・大学時代の勉強とサッカーの両立、プロサッカー選手を選んだ理由、トルシエ・ジャパンの日本代表候補時代、浦和レッズのJリーグ制覇までの道のり、ヨーロッパのスポーツ経営など、豊富な話題をお話しいただきました。





講演レポート
参加者 85名
イングランドから見たヨーロッパと日本のスポーツ経営
元Jリーガー・フットボールMBA
西野 務 氏 
186センチという長躯で颯爽と登場した元Jリーガーの西野努さん。
ねっと99夢フォーラム世話人の要望を容れて、スポーツと勉強を通したキャリア形成について語ってくださった。
「本を読みなさい」など
大きかった父親の影響
 今日は、サッカーを通じて、自分のキャリア、浦和レッドダイヤモンズ(以下、レッズという)のクラブ経営、現在の仕事について話をしたいと思います。
 ぼくは来週で36歳になります。西野努の「努」という名前は親父が、「何でも努力をしなさい」ということで付けたそうです。小さい頃はこの名前がいやでしたが、いまでは感謝していて、この名前に負けないように毎日の努力をしようと思っています。 親の影響は大きく、何を言われたかよく覚えています。口を酸っぱくして言われたのが、「本をよく読みなさい」です。小学校4、5年生のクリスマスのとき、「自転車を買って欲しい」とお願いしたら、「本を10冊読んで感想文を書きなさい」と言われました。これは当時の自分には非常に大きな課題でしたが、目の前ににんじんがぶら下がっていたらやるわけです。当時は本を読むのが好きではありませんでしたが、いまは本からの影響が大きく、親に感謝しています。ぼくの親父は非常に厳しくて、「人のいやがることを進んでしなさい」と教えられました。いま自分も、わが子にそう言ってあげようと思っています。
 親父は税理士として会計事務所を経営していて、ぼくに「家業を継いでほしい」という思惑でした。だから、「やりたいことがないなら文系だ、大学は経営学部にしなさい」と言われました。また、「人に言われて動くのではなくて、人を使って仕事をすることはおもしろいよ」とも助言されました。
 そうした独立心からか、サッカーの前の野球ではグラブはファーストミット、ラジコンでは車でなくバイクを買ってもらいました。昔から人と違ったことをするのを、関西弁で「へんこ」と言います。
高校ではスポーツ、
勉強の両立に励む
 プロサッカー選手が、サッカーを始めるきっかけで多いのは兄弟や友だちの影響ですが、ぼくらの時代は間違いなく、ぼくが小学校6年のときに連載が始まった『少年ジャンプ』の「キャプテン翼」です。「キャプテン翼」は、いまヨーロッパのプロサッカー選手にも愛読されています。
 もう一つは、小学校6年のときの担任の先生がサッカーのスポーツ少年団を立ち上げたということがあります。奈良はサッカーが弱く、家の周りに適当な練習場所もなかったのですが、その先生が縁で始めました。プロのサッカー選手はサッカーの盛んな町で幼稚園から始めたという人が多く、ぼくのように小学校6年生から始めたというのは異色です。
 中学ではめちゃくちゃ勉強を頑張って、県下有数の進学校、奈良高校に進学しました。高校では文武両道を非常にうるさく言われ、サッカーと勉強を両立させました。
 高校のサッカー部は県内ではそこそこ強くて、同級生のみんなも高校3年のインターハイまで現役を続行すると思っていたのですが、2年の冬に同級生15人のうち10人が「受験勉強をみっちりする」と言って引退してしまいました。残ったぼくたち5人は3年生の7月までサッカーを続け、「勉強すると言ってやめた人間よりも難易度の高い大学へ行ってやろう」と言って、3年生の7月から共通1次試験までめちゃくちゃ勉強して、5人のうち3人が現役で国公立に入りました。ところが、半年前に引退した人間は、試験まで1年あるというので、そんなにしなかったのか、現役で国立大学に合格したのは10人のうち1人だけでした。
 受験のエピソードとしては、共通1次試験の本番前に5科目の模試を受けて、100点満点の30点だった世界史に絞ってとことん勉強したところ、本番では100点でした。長い時間ダラダラ勉強するのは苦手で、集中力があるのだろうと思います。いま受験勉強している人がいたら、2時間ダラダラ勉強するよりも、30分だけでも集中したらとアドバイスしてあげたいと思います。世界史を100点取った勉強方法は、学校の教科書の丸暗記でしたが、それだけで結果が出たわけです。
 そして何と言っても、進学校へギリギリ入ったと思っていたのに、最初の試験で学年450人中、50~60番程度だったので、この程度の勉強でこの位置なら、もっと頑張ればもっと順位が上がるだろうと思って、すごい自信が持てました。
「相手の目を見ろ」で
サッカーに開眼する
 いまのサッカーのプロ選手は、ほとんどがスポーツ推薦でサッカーのエリート街道を進んだケースが多いのです。サッカーが巧いとそれだけで飯が食え、勉強しなくてもいいという人生です。しかし、Jリーガーの平均寿命はサッカー界の事情にもよりますが、平均3、4年というのが現状で、引退後のセカンドキャリアの問題が非常に大きくクローズアップされています。
 自分はサッカーだけでなく勉強もしてきたので、引退してサッカー外の、いろいろなことができるベースがあります。偏差値教育を肯定も否定もするものではありませんが、100%全力で取り組む姿勢は勉強であれ仕事であれ大事だと思います。
 アメリカでは、「キャリア・アスリート」という名称があるように、ゴールドメダリストが弁護士や医者、政治家になるというのが珍しくありませんが、日本のスポーツ界はメダリストが政治家になる程度で成熟していないと思います。そんな中、ぼくの神戸大学の同期には、ガンバ大阪など3チームに7年間在籍して、その後、司法試験に合格した友人がいるもののレアケースです。
 サッカーはフィジカルスポーツですが、ぼくは痩身のディフェンデーでした。サッカーの選手になるためには、足が速かったり、強いシュートが蹴れたりということを想像すると思いますが、サッカーはすごく知的なスポーツです。いったん試合が始まると、監督やコーチは関係なくて、すべて自分の責任で、来た球にすべて自分が情報収集して判断して行かなければなりません。監督のサインを基に、来た玉を打つという野球とは違うのです。
 サッカー選手として開眼したのは、1学年上のキャプテンから「相手の目を見なさい」と言われた一言によります。相手の目を見て、先を読み、ボールが来る3メートル先へ行ってボールの行方を追いかけているうちにめちゃくちゃ伸びたわけです。サッカーとは、そういう知的なスポーツなのです。そして、相手が嫌がる展開にして行く精神的なやりとりがおもしろいし、負けると非常に悔しいです。
 だから、サッカーは背が低くても足が遅くても頭を使えば活躍できる、誰でもスーパーヒーローになれるスポーツです。そういったことに気がついて特色を出したからこそ、プロ選手になれたのだろうと思います。
9年間のプロ選手を経て
リバプール大へ留学する
 小学校6年生の文集には、「プロサッカー選手になる」と書きましたが、宇宙飛行士以上にあり得ない、というよりも当時は存在しなかった職業です。
 じつは、大学4年のときまで、プロサッカーの組織ができるとはまったく思っていませんでした。そんなとき大学のサッカー部で日々の練習をまじめにしていたら、レッズから「1回、練習に来なさい」と言われ、何が起こったんだろうと思ったほどでした。そうして、Jリーグの誕生の話を初めて聞いて、目の前にチャンスが訪れました。今までの人生を振り返って、夢を持つことも大事だと思いますが、目の前のことを頑張ることが、夢に近づく第一歩だと思います。
 トッププロのサッカー選手の1日がどんなものかというと、試合がある日は90分全力で戦い、試合がない日は2~3時間びしっと練習して、あとは体を休めます。グラウンドの外でも人からちやほやされ、経済誌や新聞の活字には一切触れなくてもよくて、多少お金持ちにもなれる職業なのです。
 ぼくの場合、現役を9年続けたのですが、プロであればあるほど自分が社会から離れていくように感じて、家族ができて余計に不安が募り、本もしっかり読みました。
 また、けがが多かったのも特徴です。けがで入院して体重が10キログラム落ちたときは、選手として再起を期するとともに、悔いを残さないようにチャレンジしようと思いました。
 引退のとき、レッズが「ここで一生働きなさい」と言ってくれましたので、1年間、フロント入りして働きながら、ブリティッシュ・カウンシルで英語を学びました。そして、2003年夏からイングランドのリバプール大学でフットボール・インダストリーズ(フットボール経営学)を専攻し、MBA(経営学修士)を1年で取得しました。
 留学を志望したのは、海外での見聞や、人間としての器を広げなければいけないと思ったからです。海外へ行くと大概、「日本とはどんな国か」と説明を求められます。そんなとき、どの国の人たちも、みんな自分の国のことを誇りながら話しますが、日本人は遠慮しいで、自分を出すのが下手です。しかし、外国で黙っていたらずっとほっておかれるので、自分をがんがん出すべきだと思いました。
 最近、幼稚園での英語教育が普通になっていますが、日本語をちゃんと話せないのに、何で英語で、外国人とのコミュニケーションが図れるでしょうか。日本語は、謙譲語、尊敬語と難しく、余計にみっちりと取り組む必要があると思いました。
 帰国後は再び浦和に戻って営業部で働きましたが、2005年から親父の言葉、「独立しなさい」を思い出しながら、海がある湘南エリアに転居し、会社を起こしました。
試合の雰囲気を創る
レッズのサポーター
 レッズの話をしたいと思います。Jリーグは、一度も勝てない韓国に勝つためなど、日本サッカー界のベテランの人たちの強烈な思いがあって誕生しました。ここに日本サッカーのプロ化が発足したわけです。私は当時、そんなことはまったく知らなくて、レッズに入団しました。
 1993年開幕の年、女子高生が選手の名前も知らないくせにキャーキャーで、日本国中がJリーグ・ブームで加熱し、高卒の選手でも年収1000万円の契約をして舞い上がりました。しかし、ぼくが勘違いしなかったのは、発足2年目のけがの功名です。
 そんな中、3年連続最下位なのに試合に出続けている選手は年俸が上がり続ける一方、50人のメンバーのうち20人が解雇されました。レッズにも非常にシビアな状況がありました。そして、J2に降格したとき、僕は一番活躍した時代なのに、年俸が30%ダウンしました。次の年は必死な思いでJ1に復帰しました。引退する年には、小野伸二選手や井原正巳さんがいて人気を盛り返しました。
 2002年になってすごく状況が変わりました。その年は日韓ワールドカップの年です。日本国中にサッカーの大きなスタジアムがたくさんできました。レッズも埼玉スタジアムという6万人以上収容できるスタジアムが完成して、お客さんが増えて、人気カードは客席のすべてが埋まるようになって、収入が大幅に増えました。他のJリーグのクラブもキャパシティが大きくなりましたが、それでも1万人しか入らないスタジアムがあるのとは対照的です。
 レッズだけ異常にお客さんが入るのは、いまでも年配のサッカーファンが非常に多いからです。浦和は何十年も前からサッカーとなじみが深い土地柄なのです。もちろんクラブの企業努力があるのも事実です。レッズの場合はチケットの安売りをしません。新聞屋さんの営業にばらまくということもしません。クラブを守っていくために価格は維持するというのがポリシーです。タカビーだという声もありますが、チケットは意味のある値段ということで、ブランドを守っているのです。
 サッカーの場合は、サポーターがスタジアムの雰囲気を創ります。彼らはお金を払って選手と一緒に闘い、試合に勝ったら当事者意識で盛り上げ、スポンサーも巻き込み、スタジアムという商品価値を高めてくれる人なのです。したがって、スタジアムに来てくれるクラブの理想型が浦和レッズです。理想的な町づくりのヒントになると思います。
 レッズのスポンサーは「大企業はバラバラに働いていて、隣は何をする人ぞという雰囲気がありながら、レッズを応援することで、全社でがんばろうという機運が生まれる……」と言いました。
 昨年12月、レッズがリーグ初優勝したとき、スタジアムに選手が挨拶しに来た選手が発した言葉は「応援ありがとうございました」でなく、「皆さんおめでとう」でした。自らスケジュール調整して、お金を払ってグラウンドに来てくれるお客さんとの一体感があって、すごくいいことだと思いました。これが他のクラブにはなかなかない、レッズの一つの強みです。あと、クラブの商品価値を上げるための施策の一つとして、花のある選手を他のチームからどんどん引き抜いてきて、魅せるということをします。
 これまで日本を代表するクラブがアジアで全然結果を出していません。レッズは、日本を代表するクラブとしての責任感から、本気で勝つモードになっていて、期待大です。ぼくも応援したいと思います。
サッカーを通じて
子供たちを育てる
 現在、コンサルティング業務を行うスポーツビジネスに取り組んでいます。浦和レッズを離れていろんなことをたのまれて、「ぼくにできることなら喜んでやりましょう」と言って応えたら、「ありがとう」と感謝され、多少の報酬ももらえて、それがすごく気持ちが良くて始めたら件数が増えてきたので、会社組織にしました。
 サッカー界で働きたいという若者たちは山ほどいますが、日本のサーカービジネスの市場はまだまだ未熟で、なかなか仕事がありません。そこで自分が代表をつとめることで仕事をつくり、みんなを巻き込んで、それをこなしていくというスタイルに、いますごくやりがいを感じているところです。
 その中で、埼玉スタジアムでの県主催サッカースクールの授業を一手に引き受けています。サッカースクールの募集を始めたのに、コーチがいなくて、何とかしてくれないかと言われて引き受けました。すると指導者として手を挙げる人間が出てきてくれました。火曜日と木曜日、300人の子供たちを相手に開始し、ぼくは子供や親の要望を聞いて、1年間いろいろトライしたら子供たちが増えてきて、今年から火、水、木、金の週4日になりました。
 まず嬉しいのは町の人とふれあうことができるということです。いま教育や地域の問題などいろいろある中で、サーカーを通じて子供たちにメッセージを送り込みやすい。最初、コーチの言うことを全然聞かなかった子供も、すこし技術を見せるだけで、「それ、どのようにやるの?」と興味を示します。したがって、サッカーを通じて子供たちを厳しく叱ることができるのです。
 サッカーというのは、自分で判断してプレーするスポーツですが、自分で考える機会がすごく減っています。そこで、「サッカーで巧くなりたいのなら、自分の頭で考えて判断するようにしなさい。そのためには挨拶を始めマスターしなければいけないことがあって、それらをちゃんとやりなさい。小野伸二選手はこうやっているよ」と言えばすごく効き目があります。
 お母さんや学校も「サッカーを通じて解決できますよ」と言うとすごく乗ってきてくれるので、ぼくたちもやりがいを感じて取り組んでいます。
 さきほどアスリートのセカンドキャリアについて述べましたが、選手は引退後にすごく苦労します。選手を引退した人間がよくわが家を訪ねて来て人生相談をするのですが、サッカーを取り上げたら何もない人間が多いのです。そして、何ができるかでなく、何がしたいのかわからないので、すごく時間がかかる。そんなとき、「子供たちのコーチを希望するならやってみたらどうか」と言います。偶然に受けた大きな仕事ですが、元サッカー選手のセカンドキャリアに役立っているのです。
 日本人として子供たちが育っていくために「日本はこんなにいいところなんだよ。サッカーやスポーツを通じて向上していこう」ということを伝えていきたいと思います。ここ大網も町おこし、地域興しをやっていますが、サッカーやスポーツを通じても、いろいろなことができるのだと思います。
                  (構成/ねっと99夢フォーラム 土屋雄二郎)
ご意見  【講師・参加者】
講師のコメント (西野 努)
千葉県の大網白里町というところで開催されているフォーラムへ講演者として呼ばれ、話をしてきた。当初、サッカービジネスやサッカー選手について話せばよいと思い、プレゼン資料を作って用意していったが、主催者との話でどうやら会の趣旨が違っていると言うことに気づき、急遽テーマを変えた。テーマは、”生き様””想い”とでも言おうか。自分がどんな人生を歩んできたかという話だが、どれだけ話を楽しんでもらったのだろうか。
 大網という所には初めて足を踏み入れたが、予想以上の田舎町だった。しかし、このフォーラムの温度・熱は非常に高く、100名近くの参加者の目と顔つきは一生懸命であり、真摯なものであった。所謂”町おこし”がメインテーマのフォーラムだが、あのような町に、あのような会が定期的に行われていることに驚き、また、今後あの町から何が発信されてくるのかが非常に楽しみとなった。間違いなく、これから様々なムーブメントが起こってくるだろう。自分のできることがあれば、喜んで協力したいし、また、応援もしたいと思う。
コーチの目 松本清資氏(みずほスポーツ少年団)
演壇に立った西野氏に感じた印象は「めちゃ かっこいい」。話を聞くうちに、その内面から出てくるかっこよさに、再度感銘を受けた。
父から教わった「文武両道」の実現。負けん気が強い少年は進学校でも常に考えて行動している。「どうしたら勉強とサッカーと両立できるか?」。
 かれの結論は明快そのもの、「常に自分ができることを一所懸命、最善を尽くすこと」。
 サッカーをあきらめれば、勉強ができるわけではないことに気づき、高校3年生の夏までサッカーに没頭する。当然、みんなに追いつくため猛然と勉強にのめりこむ。結果は神戸大学に合格。有名大学がえらいわけではないが、自分が決めたことを実現する精神力、集中力があふれる西野氏。それがかっこいいのだ。
 そして、そんな西野氏から直接、話が聞けたことに感謝したい。スポーツも学問も集中力なんだなぁと、50年弱の人生を振り返りながら聞いている自分を発見。
私もラグビーを18年、海外でのプレー経験もあるし、学問もそこそこできた。でも「違うんだなぁ・・・」。
なにが? そうトッププレーヤーになりきれなかった。自分が望んだ進学に一歩足りなかった、就職活動も・・・。あと一歩の精神力と集中力。
今は縁あって地域でスポーツ指導を行っている。これからを担う子ども達に西野氏から教えてもらった精神力と集中力を伝えていきたい。
子ども達をサポートする上で、2つの目標を考えた。一つは、仲間意識も持たせ、助け合って活動すること。もう一つはリーダーとなる人材を育成すること。 
最後に、終了後の懇親会で「奥様の好きなところは?」との質問に、かれは照れながら「僕を大事にしてくれること」と答えた。
奥様と子供のために時間が自由になるフリーのコンサルタントの仕事をする西野氏の笑顔に、列席の多くの女性たちはハートをつかまれてしまっていた。
参加者のアンケートより
回収25枚
回収させていただきましたアンケートより
1.当フォーラムをどこでお知りになりましたか。
  知人 12  チラシ 8  その他 5
2.本日の講演はどうでしたか。
  とてもよかった 13  よかった 8  ふつう 2
   ◎一流の考えを学べた  (男性)
   ◎何かに集中して取り組むことのすばらしさが
    伝わってきました。  (女性)
   ◎前向きな生き方を話の中で強く感じました。
   ◎生の声が聞けて感動しました。 (女性)